濫觴

 春先の雪山に出かけると、いたる所でチョロチョロとした愛くるしい雪解け水が湧きはじめる。いわゆる「春告げ水」である。
 宮尾登美子さんの『蔵』という小説に、「雪解け水の音が枕の下で日ごと高まりはじめると春がくる」というくだりがある。日本がまだ豊かではない頃の雪国の生活と、春になる喜びが偲(しの) ばれて、なんと素晴らしい表現かと感服したものだ。
 漢詩の名言に「濫觴(らんしょう) 」という言葉が出てくる。「濫(らん) 」は浮かべるとか溢(あふ) れる、「觴(しょう) 」は盃(さかずき) のことである。揚子江(ようすこう) のような大河もその源は盃ほどの細流に他ならず、物事の始まりとか起源という意味を持っている。
 雪山に端(たん) を発したわずか一滴の春告げ水は地中に潜(もぐ) り、谷間を通り、沢水(さわみず) から小川へ、小川はやがて大河となって大海へ注ぐのである。その一滴の水は大地を潤(うるお) し、自然を彩り、人や文化までも育んできた。
「雨だれ石を穿(うが) つ」、「塵(ちり) も積もれば山となる」、「爪(つめ) に火を点(とも) す」などの言葉がある。世の中は小さなことでもコツコツと努力を続けていれば、いつかは大きく実を結ぶというたとえである。

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