野辺の草

 平清盛に寵(ちょう) を受けていた白拍子(しらびょうし)「祇王(ぎおう)」は、同じ白拍子の仏御前(ほとけごぜん) に目移りをした彼の非情に対し、「萌え出るも枯るるも同じ野辺の草いづれか秋にあはで果(は) つべき」の一首を残し仏門に入ったという。
 春になって萌え出る若葉も、霜に打たれて枯れる草も、元はといえば野辺の草であり、一時の差はあってもいずれは凋(ちょうらく) の秋に逢(あ) わぬわけにはいくまいという意味である。正に平家物語の「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ) の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう) の響きあり、沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰の理をあらはす、おごれる人も久しからず、ただ春の世の夢の如し」である。
 いつの世にも、驕(おご) り高ぶり勘違いをする人は現れるのであろうが、人生の成功者に限らず、この言葉はわずかな瞬間を生きる人間にとっての道しるべともいえる名言かもしれない。
 中国故事には「疾風(しっぷう) に勁草(けいそう) を知る」という言葉がある。勁草とは風雪などに耐える強い草のことであるが、この言葉は人は困難に遭遇(そうぐう) した時にこそ、はじめてその人の値打ちや本当の強さが分かるという意味である。
 野辺の草も勁草も同じ雑草であるが、彼らは世の喧騒(けんそう) など何処(どこ) 吹く風と、踏まれようが無視されようが奢(おご) ることなく自分の道を強く逞(たくま) しく生きる。
 人もまた彼らの生き様のように煩悩(ぼんのう) に煩(わずら) わされることなく、自分らしい一生を終えられたらどんなに素晴らしいかと思う。

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