忠臣蔵

 忠臣蔵は日本人の心の原点ともいわれる。浅野内匠頭が吉良上野介に対し刃(にんじょう) 傷に及んだ確執は、家柄だとか女性問題だとかいろいろ取りざたされているようだが、その一つに製塩法があったのではないかともいわれている。
 片や兵庫県の赤穂塩(浅野家)、片や愛知県の饗(あえば) 塩(吉良家)である。知多半島、渥美半島一帯は古くから製塩地帯として有名であったが、当時は赤穂塩の方が質・量ともに勝っていたのではないかといわれている。従って、浅野家の家計は禄高(ろくだか)以上に潤(うるお) っていたとされる。
 江戸時代の製塩法は各藩の秘密とされていたようだが、天候に大きく左右された。天日による製塩は日照を利用して海水を蒸発させるために雨量が少なく、晴天日の多い地方ほど適していた。その点、瀬戸内気候である赤穂は、伊勢湾周辺に比べると若干気候的に適していたのではないかと思われる。
 赤穂浪士の吉良邸への討ち入りは、元禄十五年十二月十四日、浪士四十七人が義を通し主君の本懐(ほんかい)を遂げたということで庶民の共感を得たとされる。「義を通す」とは正しいと思ったことを守り続けるという意味であるが、現代ではすっかり古めかしい言葉となってしまった。
 「判官(はんがん)びいき」ということもあったのであろうが、この当時にはすでに「義理人情」とか筋の通らぬことは許されぬという日本人気質が存在していたのであろう。

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