落ち蝉

 夏も終わりに近づくと公園や広場などで、蝉の亡骸(なきがら)や、今まさに命尽(つ) きようとしている蝉の姿を見かけるようになる。いわゆる「落蝉(おちせみ)」である。
 日本の夏を憑(つ) かれたように囃(はや) したてた彼らの末路は、実に哀れを誘う。
 この様子を小林一茶は、「仰(あおむ) けに落ちて鳴きけり秋のせみ」と詠んでいる。
 蝉は儚(はかな) い命の代名詞とされているが、長いスパンで見れば人の一生も蝉の一生も大差はなく、正に「浮生夢(ふせいゆめ)の如し=人生は短く儚い」である。
 ある新聞の俳壇欄(はいだんらん)に彼らの死を「大往生」と詠んだ句があったが、その鋭さにまったく同感であると思ったものである。彼らは晩夏という季節の中で、命の儚さを身を持って教えてくれるようにも見えるし、与えられた生涯を懸命に生きたようにも見える。「空蝉(うつせみ) 」という言葉がある。この言葉には「蝉の抜け殻」というだけではなく「現(うつ) しおみ」といって、現世を生きる人とか、空(むな)しいという意味がある。
 実際に木の幹(みき) に止まる空蝉を眺めていると、ずい分遠い過去に引きずり込まれるような錯覚にとらわれるが、すぐに蝉しぐれの現実に引き戻される。
 そんなことを連想するのも、人間が「考える葦(あし) 」のためなのであろうか。

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